log神田神社の由緒。(古文書の記録)

神田神社(かんだじんじゃ)【由緒】この文書は神官 幣原信忠氏によって纏められたものです。
当神社は旧「御調郡上川辺村大字本村」にあって古くから「舩岩(ふないわ)神(かん)田宮(だぐう)」と称していた。これは社殿のそばにあたかも舩(ふね)のごとき大きな岩があったためこのように呼ばれていたという。この岩は今もなお旧鎮座地なる本村の城山の城跡にある。

また「御調郡誌」は、『神田とは一国に二、三ヶ所あって伊勢神宮に初穂を供える地をいう。大己(おおな)貴(むち)命(みこと)は五穀の神で多くその地を祀り、時に素盞鳴(すさのおの)命(みこと)を祀り、少名彦(すくなひこなの)命(みこと)を合祀するものもあり、これを神田社という。今この地について考えてみるに、神田神社と称し、素神 大己貴命、少名彦命を祀りその地を神村(かむら)というのは、初めは神田村であろう。地名に僧堂、門前、鐘撞堂、弥勒などというところがあるのは、その別当寺に関するもので、昔は盛大な神社であったことが想像される。』と書いている。 古来、神田神社は神、高尾、大田、市、花尻、貝ヶ原、岩根、本、三郎丸、篠根、河面、諸毛、小国、大山田、千堂、下山田の十六ヶ村の総社といわれる大社であった。

『日本三代実録』の貞観二年(八六〇)二月二八日条に「備後国正六位上、神田神に従五位下を授く」とあり 神階 従五位下に陞階(しょうかい)された尊い古社であり国史見在社である。 やがて天(てん)禄(ろく)年間(九七〇~九七三)に旧「御調郡市村大字貝ヶ原小字な舩(ふな)山口(やまぐち)」に遷座し、その地名に基づき「舩山天(ふなやまてん)王宮(のうぐう)」「舩山(ふなやま)祇園宮(ぎおんぐう)」「舩山(ふなやま)牛頭天(ごずてん)王宮(のうぐう)」と称された。 現在もこの地には社殿の垣、甃(いしだたみ)及び御井(みい)等が存在する。

更に、文和(ぶんな)年間(一三五二~一三五八)の頃に至り現在地の「御調郡市村小字神東」に遷座し永く鎮座地となっている。曾富騰(そふと)神を祀(まつ)れる為にその地を「曾富騰(そふと)」という。(今、早道(そうどう)、又は僧堂(そうどう)というのはそれがなまったものである。)したがって神田神社は別名「曾富騰宮(そうどうのみや)」または「僧堂(そうどう)の宮」ともいう。 「芸藩通志」にも『祇園社、神村僧堂という地にあり 初建知れず 天和(てんな)三年葵亥(一六八三)再造 考えるに古事記に「山田の曾富騰(そほど)」という神あり 地名を以て考えればこの神を祀(まつ)ったのであろう。祠官(しかん) 幣原家に文明七年(一四七五)総国別当というもの社務の事を定めし文書あり』と記している。幣原家は先祖より神田神社に奉仕している。應(おう)永(えい)元年(一三九四)一〇月一七日に定められた「備後国一宮御神前内八郡国之帳座帳」に神田司としてすでに備後一宮  吉備津神社に備後国の神官の一人として奉仕した文書(写し)が現存している。 また、「旧御調郡上川辺村大字大町」 牛皮(うしのかわ)城(じょう)城主 森光新四郎景近は神田神社に刀剣を奉納し、年々初穂金五百文を寄進したといい、また、天正二年(一五七四)神田神社に刀剣を奉納した旨の文書も現存している。 当時の祠官 幣原権太夫は森光新四郎景近の代官職も勤めており、当時の代官送迎用の籠を置いたといわれる「代官籠(かご)据(す)えの石」は幣原家屋敷内に現存している。

【神社名称の変遷】現存する古文書から辿るとその時代で様々に変遷していることが窺える。
貞観二年(八六〇年)    備後國従五位下 神田神 
天禄年間(九七〇年)以前  舩岩神田宮
天禄年間(九七〇年)以降  船山天王宮
弘長二年(一二六二年)   船山神田宮
文明七年(一四七五年)   浦邊郷神田宮
永禄九年(一五六六年)   神田宮
天正二年(一五七四年)   御そうと宮
正徳六年(一七一六年)   牛頭天王宮
寛政三年(一七九一年)   舟山天王宮
文政八年(一八二五年)   舟山祇園社
明治初期(一八六八年)   神武多神社
大正一四年(一九二二年)  神田神社

【本殿、付属社殿改築の変遷】
元亀元年(一五七〇年)奉破損繕神田宮御神殿一宇 本願森光景近(牛の皮城城主)
天和三年(一六八三年)本殿再建
正徳六年(一七一六年)奉破損繕舩山天王社
享保元年(一七一六年)奉葺替造営牛頭天王宮一宇
延享元年(一七四四年)奉葺替牛頭天王宮一宇
明和二年(一七六五年)奉再建牛頭天王御神前1宇
明和九年(一七七二年)奉屋根替祇園牛頭天王宮一宇
安永五年(一七七六年)奉屋根葺替祇園牛頭天王宮一宇
寛政元年(一七八九年)牛頭天王宮拝殿奉再建立
享和元年(一八〇一年)牛頭天王宮御輿蔵一宇奉建立
文政五年(一八二二年)奉上葺造堂牛頭天王宮一宇
安政四年(一八五七年)奉葺替牛頭天王宮一宇
昭和二年(一九二八年)奉改築大丈夫神社
昭和三年(一九二九年)奉改築神田神社社務所一宇
昭和八年(一九三四年)奉葺替神田神社一宇

【摂末社】 厳(いつく)島(しま)神社(市岐島比売(いちきしまのひめ)命(みこと))
大丈夫(ますらお)神社(蘇民将來(そみんしょうらい)神)

【御祭日】  元旦祭(一月一日)
祇園祭(七月一四日、四年毎に「民俗芸能 みやがり踊り奉納」)
例祭(十月第三日曜日 神楽奉納)
月次祭《毎月一日》
【特殊神事】神輿渡御  旧記によれば縣社の八幡神社から下川辺の篠根に至るまで神輿渡御が行われていたとの記述あり。
神社前の川中に忌竹を立て注連縄を引き回しその中で禊をし神輿渡御の儀を行ったとある。しかし神輿が古くなり破損したため明治初年頃より中止したとのこと。
お湯立て神事(祇園祭 祭典斎行時)
宮講(年間七回(二、三、五、八、九、十一、十二月)七振興区が 順次本殿、拝殿、社務所 御垣内の清掃の後講社の祭典斎行)

【本殿】  三間社流造(間口三間、奥行二間)
【付属社殿】幣殿(五坪)拝殿(十二坪)神楽殿(八坪)社務所(二十坪)手水舎
鳥居一基《寶暦五年(一七五五年)》奉納 狛犬一対[大正二年(一九一三年)奉納)
標柱一基《参神作造化之首 二靈爲群品之祖》 (参(さん)神(じん)は造化(ぞうか)の首(はじめ)と作(な)り 二靈(ふたたま)は群品(ぐんぴん)の祖(おや)と爲(な)す)
隋身像 木造二体 年代不詳 昔、隋身門があってこれを安置していたものと 思える
木製狛犬一対(尾道市重要文化財、像(高阿形六二、五㎝ 吽形五八、八㎝ 室町時代末期作)
樹木ムクロジ(尾道市天然記念物 推定樹齢八百年)
御神鏡《寛政三年(一七九一年)舟山天王 備後国御調郡神村惣氏子中寄進)
釣下型金幣《享保四年(一七一九年)   備後国御調郡神村氏子寄進》 神額「祇園宮」《万延元年(一八六〇年)奉納》

【神田神社にまつわる民話】
むかし神の世のこと、貝ヶ原の竜王山の近くの舩山(ふなやま)というところに神さんがまつって あった。あの神さんというのはなあ、「天照大神」の御弟になられる「すさのうのみこと」という方じゃったんじゃ。あの神様は、とっても気の荒い方で、生きた馬の皮でもはぐほどでの。その頃は「素戔鳴(すさのおの)命(みこと)」じゃのうて「舩山(ふなやま)天王(てんのう)」としてみんなからうやまわれておったそうじゃ。舩山(ふなやま)とか貝ヶ原とか、どうもこの辺は、海に関係がある名前が多いがのう、ほんまにむかしは、この辺まで水がきていたのじゃ。山の中腹から貝がようけ出るのもそのためじゃし、「湖カべリ岩」というて湖で掘られたような跡がはっきり残っとるじゃろう。せえで一番適したのをとって貝ヶ原という字名にしたのじゃ。
それからずっと後の徳川時代になっての話じゃが殿様の行列がこの辺をお通りになった時のこと、馬に乗った高貴な方達が舩山(ふなやま)神社のまんまえにさしかかると、どうしたものか、みんなばたばた落馬してしもうた。もちろん負傷者もようけでてのう。不思議に思うて祈祷してもろうたところ『このような高いところに祀(まつ)ってあったのでは、参拝者が少なくて駄目だ。どこか人の沢山参ってくれるところに安置せい」というので、山から下ろして下においたのじゃ。 不思議なことにそれからは、一人も落馬者はなくなったし、無事故で交通が出来るようになった。その宮というのが、今の早道宮(そうどうのみや)なのじゃが、その当時は「神武(かん)多神社(だじんじゃ)」といわれておった。
それから後になって、社歴をひもといて見たところ「神田神社」が本当の名だと出ておったのう、現在のようになったのじゃ。今では正月ともなれば、あれでも千人くらいは訪れるじゃろうか。むかしは市はもちろん、上川辺からも、大和、綾目からも方々から沢山事、参拝者があったもんじゃ。 今でも、旅行にでる時に参拝して神社の庭の砂を少し紙に包んで行くと、事故が起こらないと言われているそうじゃ】 というように鎮座の地理的特徴や往時の参拝者の多さを始め賑わいを伝えている。

《参考資料》 芸藩通誌 御調郡誌 御調町史 広島縣神社誌 せせらぎ民話伝説集3(御調高校刊)