ふなやま
「旧 神田神社跡地を貝ケ原聡山山中に比定する理由」
令和元年
神田神社 宮司
旧 神田神社の跡地を探索しておりましたが、このたび貝ケ原の有志の方々のご協力を き、下記の理由によりその跡地を船山山中に比定いたしました。
1. 「神武多(神田)神社御由緒調査書」(別紙参照)によると「天禄年間(970~973) 調郡市村大字貝ケ原小字船山に移祭し船山天皇宮と称えり」とあること。
2、また同調査書に、「今に社跡の垣甃(いしだたみ) 及び御供川等存在せり」とあること
3.貝ケ原の松山口から現在の鎮座地 御調郡市村字神東に移祭されたのは文和年 (1352~1356)と言われており、すでに 660 年を経ているので、社跡の垣甃(いし たみ)は壊れており整然としたものはない。
4. しかし御供川と称される川は古来よりその流れは枯れたことはないと言われ、現在厳然と流れている。
5.この貝ケ原からは、昭和 43 年弥生時代の特殊器台が出土している。(別紙参照)こ は大型の円筒状の土器で墳墓や集落の祭祀に使用したもので、吉備文化圏を象徴す 土器の西端の出土といわれている。県内では三次と当地にしか出土していない貴重 土器である。
すなわちこの貝ケ原の地は古くから吉備文化と出雲文化の交流地として栄えてい ものと推定され、このことは古来(弥生時代)よりこの地が信仰の対象で祭祀遺跡 あることを物語っている。
6.神田神社は旧本村の城山の山頂近くにあったとされるが、なぜこの貝ケ原に移祭さたのであろうか? それはこの貝ケ原の地が古くから大変繁栄し、また船山が神聖な地(神体山)であ たからである。
7.因みに御供川と称される磐座付近の川(神泉)の底からは弥生時代、古墳時代、 弥生時代のまつりと祈り (貝ヶ原の特殊器台) 先ほど述べたように弥生土器には、様々な形をしたものがありますが、最も変わった 形をしている土器が写真 13 の

特殊器台

です。
この特殊器台は、御調町貝ヶ原遺跡から 出土したもので、上部の受け台部分が破損している他は破損箇所はなく、特殊器台の分 布の南西端にあたるなど重要であるとして、広島県重要文化財に指定されています。
表 面には、赤色顔料が塗られ、斜めの線により様々な文様が描かれ、長方形の透かし穴が 彫られています。この非常に美しい土器は、第3図のように墓に埋葬する際の儀式や祈 りに使用されたと考えられます。
探索の決めてになった井戸です。高い山の上に年中枯れることのない不思議な水が湧き出ています。 井戸
石畳です。テレビ林道が出来て周囲の様相は変わりましたが、この部分は昔の姿を留めています。 石畳
2019年11月24日鳥居 しめ縄を施し奉告祭を行いました。 舩山天王宮奉告祭
天王宮跡 天王宮跡
舩山天王宮の存在を立証する古文書 古文書 尾道市の係官調査